労働の理由と労働の環境について - Re.Ra.Ku アドベントカレンダー day 25

リラクアドベントカレンダーの最終日です。丸山です。せっかくなんで、最後はポエムで締めましょう!

わたしは現在リラクでマネージメント職として働いています。自分でもコードを書いているので、かっこよく言えば一応「プレイングマネージャ」という感じでしょうか。ただ、弊社は優秀なプログラマが集まっており、なおかつ今は人数も多くないため、彼らをマネージメントするにあたって困ることはほとんどありません。どちらかというとプロダクトに関わるステークスホルダー間の調整のほうが消耗することが多い、という感じの日々で、人的な部分で悩むことが少なく、本当にメンバーには感謝しています。

さて、「プロダクトに関わるステークホルダー間の調整に消耗する」と書いていますが、これはどちらかと言うと自分の問題で、単にわたしに調整力のようなものが欠けている、というのが問題だと感じています。苦手なことをするのは本当に大変です。今回は、「そんな苦手なことをやってまでなぜこの会社で働くのか」ということについて書いてみたいと思います。

夢のないことを言うようですが、わたしが働く第一の理由は、金です。家族が楽しく生きていくのには金がかかるし、息子の教育にだってお金がかかります。そのためにわたしは労働し、お金を稼いでいます。

でも、それだけでは心のどこかがどんどんすり減っていきます。わたしはわがままで強欲なので、せっかく働くならば以下の楽しみも同時に摂取したいと思ってしまいます。

  • 自分の能力が誰かを幸福にしていると信じられる
  • 技術的にチャレンジングな環境で働ける

以前自分のブログでも書いたことがありますが、労働というのは基本的に世界への働きかけです。例えば農業は自然を人間にとって都合の良いように改変することにほかなりません。そのように、どんな労働だって多かれ少なかれ「世界を変えている」と思います。そして、どんな労働も、少しは世界を変えている以上、「無垢」ではあり得ないと思っています。世界を変化させることは、だれかを傷つけることとコインの両面のようなものであると思います。だから、だれかの特定の仕事を「あれは不幸を生み出す仕事だ」と断罪することはとてもむずかしいことだとわたしは思います。だれにとって何が不幸であるのか、というのは一面から判断できることではないでしょう。

でも、自分の仕事については、自分で選択することができます。

「仕事だからしょうがないんだよ」と思い、「自分の技術で不幸な人間をたくさん生み出すのはしょうがない」と思いながら仕事をするのか、「自分の技術でこのサービスを作ることで、総量としては幸せが増えるはずだ」と信じながら仕事をするのか、そこには大きな違いがわたしにとってはあります(そこに大きな違いがないひともいると思うし、それはそれでいいと思ってます。あくまで自分の話をしています)。

消耗する仕事も日々のなかにはあるけれど、それでも自分の労働によって生み出すものは世界の幸福の総量を増やせるものであろうと信じて日々労働をすることができることは、わたしにとっては幸福なことです。こう思えるのは、会社が目指す方向と自分の目指す方向が大体一致している、というのが大きな理由ですね。

技術的にも同じような話で、いくら自分の目指す方向と会社の目指す方向が一緒でも、プログラマとしてつまらない仕事しかないならばわたしはそこで働きたくありません。幸い、弊社のプログラマメンバーはみんな私よりもずっと優秀な技術者で、彼らと働くことはわたしにとってかなり大きな刺激になっています。

わたしは、自分の働く理由が「正解」だとは思っていません。というか、働く理由に正しさなんてないと思っています。どんな理由でもいい。第一、わたしの働く理由の第一は「金」ですし。ただ、自分の働く理由と向き合ったときに、その理由にふさわしい場所でふさわしい労働をできているならば、それは幸福のひとつの形であろう、と思っています。

めちゃめちゃスピリチュアルで薄っぺらいような話をしてしまいましたが、せっかくの年末年始、自分が働く理由と向き合って見ました。

みなさんが働く理由はなんですか? 正解なんてないと思いますが、みなさんの働く理由と働く環境がマッチした、幸福な来年になりますように! たとえばとにかく楽に働きたいというひとはとにかく楽な労働ができますように! 労働を一切したくないひとは労働しなくてもよくなれますように(めっちゃ努力が必要そう……)! 良いお年を!!!!